バテンレースの歴史

バテンレースが海外から日本に伝わったのは、明治時代。
以来、時代の大きな荒波を何度も乗り越えて、上越のバテンレースは受け継がれてきました。

明治20年頃

バテンレースが日本へ渡来

19世紀後半、ブレード(布テープ)を使い一針一針手作業で丹念に作り上げるレースが西洋で人気となり、明治20年ごろ日本の横浜・神戸に渡来する。バテンレースという名前は、ドイツのヘッセン(Hessen)州バテンバーグ(Battenberg)が由来と言われている。
家庭内職として向いているバテンレースは日本でも瞬く間に普及した。当時は海外で製造された輸入のブレードを使って、国内で製品を製造し、ヨーロッパやアメリカへ輸出していた。

明治25年

高田にバテンレースが導入される

横浜でバテンレースが盛況になっていることを知り、吉田虎八郎(吉田バテンレース初代)等が高田市(現:上越市)でも行ってみようと呼びかけたのが、高田のバテンレースの始まりだった。

初代が事業を開始

高田にバテンレースを導入した中の一人である初代・吉田虎八郎は、バテンレースの元受け業などを立ち上げ、普及に尽力する。

初代・吉田虎八郎

明治31年

バテンレース工場の開設

このころは、まだバテンレースの原料となるブレード(布テープ)は輸入されていたので、原料を入手するのは困難な時代だった。
横浜よりバテン手芸の指導者を呼び、職人町(現:上越市大町5丁目)にバテンレース工場を開設。上越地方はバテンレースの有数の産地として発展した。

明治時代の高田の町並み

明治41年

国内でブレードの生産を開始

原料がなかなか手に入らない様子を見た十日町市出身の技術者がブレードの製織機を発明し、横浜に東洋ブレード(株)を作る。これにより原料が入手できるようになり、バテンレースがさらに発展。アメリカやイギリス、フランス、イタリア、スペイン、ベルギーなどの外国に輸出され、最盛期には8,000人もの人々が従事していたという。

このころ高田市では、バテンレースがたくさん作られるようになったため原料が不足するようになり、東洋ブレード(株)を高田市に呼び、会社を起こした。

大正5年

バテンレース会社が次々と設立される

この頃にはバテンレースの同業者が22~23名、生産高は約300万円(現在の貨幣価値で約120億円)までになった。

大正6年

第一次大戦で衰退、廃業が相次ぐ

第一次世界大戦が始まり、特にアメリカの贅沢品の輸入禁止処置によって日本からの輸出も激減してしまい、廃業する業者が続出する。バテンレースはいっきに衰退の道をたどり消滅寸前の状態となった。

大正12年

関東大震災によるさらなる打撃

突如として襲った関東大震災に遭遇し、バテンレース各社は更に大きな打撃を受ける。横浜にあったの店だけでなく、当時20あまりの会社の在庫や輸送途中の商品も、行方不明になったり輸出契約や生産に失敗や遅れが出てたりしてしまい、倒産寸前に追い込まれる。

昭和~
第二次世界大戦終結まで

バテンレース業者が次々に廃業

昭和に入ってからも満州事変、支那事変、第2次世界大戦と息つく暇もなく事件が起こり、さらに苦しい時代が訪れる。廃業を余儀なくされたバテンレース業者も増えていった。

戦後~
高度経済成長期

生活の欧米化とともに需要が増加

第二次世界大戦が終結し、高度経済成長期と日本の生活様式の欧米化が追い風となって、バテンレースが再び注目を集める。
需要の高まりとともに息を吹き返した高田のバテンレースは、再度活況を呈するようになった。

二代目・吉田要が営業を再開

終戦後の昭和30年、幾多の苦しい時代を乗り越えた二代目・吉田要が、吉田バテンレースの前進となる「吉田要商店」の営業を再開。ピアノかけやテーブルクロスなどのインテリアが飛ぶように売れ、全国の百貨店でも販売するようになった。

二代目・吉田要

昭和60年代~

バブル崩壊とともに再び衰退へ

円高が進み、安価な中国製のレースが大量に流入するようになる。さらに、バブル景気の崩壊とともに、レースの需要も再度激減していった。
高田のバテンレースの会社も次々と事業をたたみ、僅かに残るだけとなった。

三代目が経営を引き継ぐ

バテンレースの需要が減り続ける中、三代目として吉田紳(現代表・節子の夫)が、高田でバテンレースを作りを続ける吉田バテンレースの経営を引き継ぐ。

3代目・吉田紳と節子

母と一緒にレースを縫う節子

平成~

平成25年「メイド・イン上越」に認定される

バテンレースが平成25年(2013年)、上越市が全国、世界の多くの人たちに発信したい特産品・工業製品を認定するブランド「メイド・イン上越」の認定を受ける。

催事出展・体験教室を開催

全国の百貨店で開催される職人物産展などの催事への出展を開始。

2012年、三代目吉田紳が病気で他界。紳の妻で吉田要の長女の吉田節子が代表に就任する。

バテンレースの魅力を多くの方々にお伝えできる場として店舗にて体験教室開始する。その後日本橋(東京)でも教室開催。(現在休校中)

催事出展の様子

令和3年

高田にバテンレース工房オープン

令和3年(2021年)4月、上越市は地域文化の継承と発信の拠点として活用するべく、文化財に指定された町家「旧今井染物屋」を改修して一般に公開、バテンレースの工房を設置する。

令和4年

新潟県伝統工芸品に指定

令和4年、バテンレースが新潟県伝統工芸品に指定される。

工房で体験講座開始

令和3年に開館した上越市の文化財「旧今井染物屋」に工房を設ける。工房にて、バテンレース継承講座を開始する。

令和5年

製品が「メイド・イン上越」に認定される

令和5年、バテンレース日傘・バテンレースつけ襟・バテンレースハンカチが「メイド・イン上越」に認定される。

現在、吉田バテンレースでは、バテンレースの材料となるブレードの製造から始まり、デザイン、製品までを一貫して製作しています。

上越高田で長い歴史を持つバテンレースの継承者として、後世に伝えるべく、技術の継承や広報活動に取り組んでいます。