バテンレースの歴史

創業120余年の歴史が語る上越 バテンレースの足跡

明治25年

横浜でバテンレースが盛況になっていることを知り、宮崎慶吉(市議)、吉田寅八郎(現:吉田バテンレース先々代)等が高田市(現:上越市)でも行ってみようと呼びかけたのが始まり。
明治27年

バテンレースが広まる。
明治31年2月

飯島保太郎が、横浜より西沢タツ、阿部ウメをバテン手芸の指導者として呼び、職人町(現:上越市大町5丁目)にバテンレース工場を開設する。
このころは、まだバテンレースの原料となるブレード(テープ)は輸入されていたので、原料を入手するのは困難な時代だった。
明治41年 原料がなかなか手に入らない様子を見た横浜に住む根津音吉(十日町市出身)がブレードの製織機を発明し、横浜に東洋ブレード(株)を作った。これで原料が入るようになり、バテンレースが発展することとなる。
明治43年 バテンレースは高価なものであったため、アメリカやイギリス、フランス、イタリア、スペイン、ベルギーなどの外国に輸出されていた。
このころ高田市ではバテンレースがたくさん作られるようになったため(8000人もの人が仕事をしていた)に、原料が不足するようになってきた。
そこで、有沢富太郎は東洋ブレード(株)を高田市に呼び、会社を起こした。
大正5年 広瀬収造、更に植杆次郎等がブレードの生産を開始、大成功を収め、この頃にはバテンレースの同業者22~23名となり生産高は約300万となる。
大正6年 成功していたブレードの生産だったが、第一次世界大戦の始まり、贅沢品の輸入禁止処置のため、すぐに衰退の道をとりやがて消滅寸前の状態となる。
大正12年 突如として襲った関東大震災に遭遇し、更に大きな打撃を受け横浜の店だけでなく当時20あまりの会社の在庫も輸送途中の商品も行方不明になったり、輸出契約や生産に失敗や遅れが出てしまい倒産寸前に追い込まれる。
このような状況の中で飯島保太郎は神戸にあった近藤忠商事(株)という貿易商社が主な取引先であったため被害を受けることが少なく昭和60年代まで会社は生き残ることができた(現:上越市東本町4丁目)。

時代は移り変わり、昭和に入ってからも満州事変、支那事変、第2次世界大戦と息つく暇もなく事件が起こり、この苦しい時代を乗り越えた業者は、飯島保太郎(後継者飯島常七)、吉田要(後継者吉田紳)、青山雷治(後継者青山正三)の3つだけであった。

昭和30年 戦争も終え、落ち着いてきた頃、吉田要は吉田バテンレースの経営を始めた。
そして日本が経済的発展を遂げると人々はバテンレースに魅力を感じるようになり、次々と売れ始め今日に至り現在では吉田バテンレースは材料から仕上げまで一貫生産を行っている。

そして現在、国内でバテンレースの材料となるブレードの生産からデザイン、製品まで一貫して製作しているのは吉田バテンレースのみ。
 
その長い歴史を持つバテンレースの継承者として後世に伝えるべく、各種メディアの取材や出演依頼にも積極的に応えている。

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